厳密化の代償

(以下の記事は2006年2月9日に書いたものです)

しばらく前に「dxとdyの解析学―オイラーに学ぶ」という本を読んだので、今回はそれに関した話題です。

解析学微積分学)を学ぶときに誰もが感じるであろう「dx、dy とは結局何なのか」という疑問が歴史的な観点から説明されていて、大学初年度でεやらδやらの微積分の講義を、首をひねりながら聞いていた人にはお薦めです(もちろん私もその一人ですが)。

今日、高校や大学で学ぶ解析学コーシー以来、数々の数学者の手を経て厳密化されたもので、そのような解析学では dx や dy は単独では意味を持たず、dy/dx ( =f'(x) ) が導関数として定義されているにすぎません。積分記号の中に現れる f(x)dx も分離不可能な記号なのです。にもかかわらず、実際の計算では dy/dx を分数として扱ったり、dx や dy を無限小量として面積や体積を求めています。なぜこのように理論と応用との間に大きな溝ができてしまったのか、「dx と dy の解析学」では関数の概念が突出して一般化されたため、それに適合するように解析学も厳密化せざるを得なくなったためとしています。

たとえばオイラーは関数を次のように定義しています「ある変化量の関数というのは、その変化量といくつかの数、すなわち定量を用いて何らかの仕方で組み立てられた解析的表示のことをいう」。つまりオイラーのいう関数とは a+3x といった既知の変化量から新たな変化量を構成する手続きのことなのです。

しかし時代とともに関数の概念も一般化され、ディリクレの時代に至って「変数 x の個々の数値に対応して、それぞれ変数xの数値を確定すべきある一つの基準が与えられたと仮定するとき、y を x の関数といい、y=f(x) などと書く」と定義されます。つまりこの定義によれば関数はもはや上述の a+3x のように何らかの式を用いて表示される必要はないのです。そのため、変化量という概念が変数に取って代わり、微分計算においては後述する微分ではなく微分係数が全面に押し出されます。

オイラーの時代では dx、dy とはそれぞれ x と y の微分と呼ばれる無限小量であり、dy/dx は微分商と呼ばれる有限確定値なのです。微分計算というものは本来、ある変化量 p に対してその微分 dp を求める方法で、また定積分とは無限小量 f(x)dx を全領域にわたって足しあわることに他なりません。

  1. da=0
  2. d(ap)=adp
  3. d(p+q+r+s+\dots)=dp+dq+dr+ds+\dots
  4. d(pq)=pdq+qdp
  5. d\frac{p}{q}=\frac{dp}{q}-\frac{pdq}{q^2}

微分の公式(a は定量、p、q、r、s は変化量)

今日の微分計算においては微分そのものではなく、微分係数を求めることがその主役となっていますが、微分係数というのは本来、微分商として認識されていたのです。オイラーの時代(あるいはそれ以前の)の数学者たちには微積分学の基本定理も「有限変化量の微分を作り、その微分を寄せ集めるともとの有限変化量にもどる」、「微分を寄せ集めて有限変化量を作り、そのまた微分を作るともとの微分にもどる」という半ば自明なこととして認識されていましたが、解析学の厳密化に担って導関数と定積分の概念が剥離したために、両者の関係を記述する基本定理が近代解析においてはじめて「基本定理」になり得たのです。

ニュートンライプニッツ、あるいはベルヌーイ一族、オイラーダランベールらが活躍した解析学(無限小解析)の黎明期においては、「無限小量」という概念に基づき、重要な発見が次々になされました。無限小量という、いわば「いいかげん」な概念に対するバークリー僧正による批判もありましたが、直感的であるが故に理解が容易で、なおかつ強力な無限小解析は、様々な問題に応用され大きな成功を収めます。無限小解析の基礎に関しては、ダランベールの言うように「前進せよ、されば信念は訪れん」といった状態だったのです。

厳密性を重んじる近代的な数学では、定義あるいは公理を出発点として理論を構築していきます。かつては無限小解析と呼ばれた解析学も、コーシー、ディリクレ、ワイエルシュトラス、リーマン、デデキント等多くの数学者たちの努力により、ライプニッツ以来用いられてきた無限小量という曖昧な概念の放逐に成功しました。しかしながらそのような厳密化には「理解の容易さ」という大きな代償がつきます。

発見に続く理論の厳密化の過程で、発見が定義とされ理論そのものの透明性は増す一方でその本性が見えにくくなってしまうのです。現在ではその存在が見えにくくなった本性をつかむためには、一度過去の大先達たちに目を向けてみるのもいいのではないでしょうか。


dxとdyの解析学―オイラーに学ぶ

dxとdyの解析学―オイラーに学ぶ