世界を近づけたメートル法

征服者はいつかは去る。だが、この偉業は永遠である。

ナポレオン・ボナパルトが『メートル法の起源』に贈った言葉

長さや重さ、時間といった概念はこの世界を理解するためになくてはならない存在です。これらの概念は私たちの生活とあまりにも深く結びついているので、それらがない世界など想像もつかないでしょう。長さ、重さ、時間の概念なしに、あらゆる商取引、科学の営みなど成立しようはありません。長さや重さ、時間を支配することはすなわち世界を支配することであり、歴史上、多くの為政者たちが権力の象徴として、様々な度量衡や暦法を制定してきました。

現在では統一された度量衡として、私たちはあたりまえのようにメートル法を用いていますが、それ以前は地域ごとに統一性に欠けた数多くの度量衡が用いられており、物や情報の交換の際に大きな障害となっていました。メートル法が制定された国、フランスにおいては次のような有様だったのです。

学者(サバン)たちは、至るところで重さや長さの単位がまちまちなことに辟易していた。18世紀の測定単位は、国ごとに違うだけでなく、国の中でもまちまちだった。おかげでコミュニケーションや商業は滞り、国を合理的に統治することができなかった。また、学者たちが自分の研究成果を比較し合うこともままならなかったのである。革命前夜にフランスを旅したあるイギリス人は、フランスの単位の不統一は責苦に等しい痛感した。彼が言うには、「フランスでは、測定単位がとてつもなく混乱しているおかげで、理解できないことばかりだ。州ごとに違うだけでなく、地域ごと、いや、ほとんど町ごとに違う単位を使っている……」。当時の推計によると、アンシャン・レジームのフランスには、約800種類の重さと長さの単位が使われていたが、同じ名称だが実際には異なっていた度量衡をきちんと区別すると、25万種類という驚異的な数にのぼったという。

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測』p.15

25万種類! あまりにも当たり前にメートル法の恩恵を授かっている現在の私たちからすれば、かつて同じ国の中で25万種類もの度量衡が存在していたという事実には目を疑うほかありません。理性に重きを置く啓蒙主義の時代に入り、このように混乱した度量衡を統一しようという気運が高まります。このような試みもフランス革命がなければ幻想で終わっていたかもしれません。革命初期の1790年、国民公会は全国共通の度量衡を制定する権限を科学アカデミーに与えたのです。

これに取り組んだ学者(サバン)たちは勇敢にも、自分たちが置かれている歴史的な状況にとらわれずにより大きな視野から考えて、この度量衡という標準を、永続性のある基礎の上に作ることを決めた。一連の測定単位は、「恣意的なものを一切含まず、地球上に存在するいかなる人々にも特別な利益をもたらすことがないように」選ぶことを誓った。そして彼らはこの新しい測定単位を、地球そのものの大きさに基づいて決めることにしたのである。

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測』p.35

委員会はこのほかにも「北緯45度の地点で、半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」を1メートルとして採用する案を検討しましたが、重力加速度が場所によって違い、また長さの定義に時間を使わなければならないということで却下されました。以上の決定を受けて、新しい長さの単位「メートル」は、地球の北極点から赤道までの経線の距離の1/10,000,000とされ、ダンケルクからパリを通り、バルセロナに至るまでの子午線を基準に1メートル求められることとなりました。この子午線の長さを測るという重要な使命が二人の学者に下されました。一人はジャン=バティスト・ジョゼフ・ドゥランブル。彼は一歳の頃に天然痘に罹り、あやうく視力を失うところだったといいます。天文学に触れたのは30代半ばで、科学者としては遅咲きといえるかもしれません。彼はパリを出発し、北へ向かいます。使命を担うもう一人の学者はピエール=フランソワ・アンドレ・メシェン。メシェンはドゥランブルとは違い、少年時代から大好きな天文学に親しみ、若くしてフランスを代表する天文学者の一人となります。彼はパリを出発し、南へと向かいます。彼らはともにジョセフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランドという有名な天文学者の弟子でした。

ラランドを知らない者はいなかった。彼はフランスでは、科学の紹介者として第一級の人物であり、あらゆる偏見を敵とみなした。無神論者であると公言してはばからず、蜘蛛恐怖症はばかげていると示すために蜘蛛を食べた。ドゥランブルに出会う少し前には、彗星が衝突して地球が破壊される確率を計算して、パリを恐怖に陥れた。彼は醜い小男で、虚栄心が恐ろしく強かった。自分はソクラテスと同じぐらい醜男だと、よく自慢していた。世界最高の天文学者でなかったとしても—彼自身はそう思っているように見えることが多かったが—、世界で最も有名な天文学者であることは疑いなかった。

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測』p.33

彼らは1792年6月にパリを出発します。当初、この測量は1年間を予定していました。しかしこの大計測は困難を極め、実に7年近い期間を要することになります。パリではルイ16世が処刑され、ロベスピエール率いるジャコバン派による恐怖政治が敷かれていました。折しもフランスは彼らの出発とほぼ時を同じくして周辺諸国との革命戦争に突入し、奇妙な測量機器を携えた彼らはスパイと間違われて逮捕され、時にはギロチンの露と消えそうになったこともありました。しかし、彼らが直面した困難はこのような外的なものだけではありませんでした。測定にはつきものの誤差が彼らの前に立ちはだかったのです。

メシェンはバルセロナとモンジュイで測定したデータが互いに矛盾していることに気づき、その几帳面な性格から矛盾を隠すために意図的な隠蔽を行ってしまいます。彼はこのことに非常に苦しみ、発狂の寸前まで追い込まれ、最後にはこれを訂正しようと新たな測定を行っていた最中に亡くなってしまいます。ドゥランブルがこの隠蔽に気づいたのはメートル法が施行された後で、彼はこの事実をメシェンの日誌に告白し、以後これを封印します。

メートル法制定という同じ使命を負って測量を行ったメシェンとドゥランブルですが、彼らの「測定」に対する態度は大きく違っていました。メシェンは上述のように、いわば臆病なまでの完璧主義のためにデータの隠蔽を行ってしまいます。これに対しドゥランブルは、後に検証が可能なように誤差を含むあらゆるデータ、計算の記録を残しています。メートル法制定のために行われたこの一連の大計測は、現代の科学者に多くの教訓を与えてくれます。


メートル法制定のために尽力した学者はメシェンとドゥランブルだけではありません。ナポレオンをして「誇り高き金字塔」とまで言わしめた数学者、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュもそのうちの一人です。メートル法が10進数を元に組み立てられたのは彼のおかげといえるでしょう。

革命期におけるラグランジュのもっとも重要な業績は、度量衡におけるメートル法の完成に指導的役割を果たしたことであろう。10の代わりに12という数が数構成の底数として選択されなかったのは、彼の皮肉と常識によるものである。12の≪ごりやく≫は明らかであって、今日でも狂信者の群れと異ならない熱心な主張者は、人を感動させるような論文をものして、宣伝している。10進記数法の上にさらに12進法をかさねるのは、五角形の穴に六角形の釘を打ち込むのと変わらない。12進法の不合理を、どんな変屈者にもわからせるため、ラグランジュは、それよりよいものとして11進法を推奨した。どんな素数を底数にしても、すべての分数が同分母の形で表されるという利点がある。それに反して、12進法の短所は数多くあり、短除法を理解しているのものには、だれにでも明らかである。そこで、委員会は10進法の採用を可決した。

数学をつくった人びと〈1〉 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)』p.329

ラグランジュラヴォアジエがギロチン台に送られたときにはその愚行に激怒し、過激化する革命家たちにこう言ったとされています。「もし本当に偉大な人間精神をみたいと思うなら、ニュートンが白光を分析したり、宇宙のヴェールをはいでいる書斎にはいってみたらよい。」


革命政府は旧来の因習から人を解放し、合理性を追求するため、メートル法の制定以外にも、通貨を10進化し、暦を10進化し、角度を10進化し、時間を10進化します。これらのうち成功を収めたのは、メートル法と通貨の10進化で、その他はフランス革命暦グラード十進化時間として、歴史の資料室に眠っています。


今日では圧倒的成功を収めていると言っていいメートル法ですが、1801年にフランス全土で義務化されてからもその受容には長い時間が必要とされました。たとえばフランスはメートル法を生んだ国ですが、メートル法を拒否した最初の国でもあります。1812年、ナポレオンがメートル法を廃止し、古い度量衡を復活させたのです。その後フランスではようやく1837年にメートル法が復活し、1840年には義務化されます。1867年には、度量衡の不統一に悩まされていた各国の学者がパリ万国博覧会を機に集まり、メートル法により世界の単位を統一する決議を行いました。1875年にはメートル条約が締結され、19世紀末から20世紀を通して徐々に加盟国を増やしていきます。

日本は1885年にメートル条約に加盟し、1893年から施行された度量衡法においてメートル法が採用されますが、この法では尺貫法も同時に認めており、この後しばらく二元的な単位体系が運用されることとなります。1921年にはメートル法に一本化するために改正法が公布されましたが、国粋主義者の反対にあい、その後のナショナリズムの台頭とともにその施行は無期延期となります。1951年には計量法が公布されてようやく度量衡はメートル法に一本化されることとなり、1966年から全面的に実施されることとなりました。1885年の条約加盟から実に80年という年月を要しています。


4月11日は、メートル法を基本とする改正・度量衡法が公布されたメートル記念日です。メートル法制定という大事業のために尽力した学者(サバン)たちに思いを馳せてみてはどうでしょう。


万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測

数学をつくった人びと〈1〉 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

数学をつくった人びと〈1〉 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)